讀賣新聞は2010年6月9日から7月14日にかけて、「まんが道60年」と題して藤子不二雄Aの回想を連載した。全25回。私なりの要約をアップしておく。ツイッターからの転載。
第1回
讀賣朝刊の連載「時代の証言者」は今日から藤子不二雄A。こりゃしばらくは讀賣だな、朝刊は。「今の漫画は僕らの時代から格段の進歩を遂げていて…「バガボンド」の井上雄彦さんなんて、あの筆のタッチが見事で、あんまり感激したんでファンレターを出したくらい」このシリーズは金日を除く全曜日掲載 Wed Jun 9 14:14:39 2010 webから
第2回
6/10讀賣朝刊「時代の証言者」。藤子不二雄A「藤本氏も人見知りで、自分から声をかけたのは初めてだったそうですが、運命の導きだったんでしょうね。それから毎日一緒でしたが、わずか2か月で疎開することになりました」運命づけられていれば、ひとたび去ってもまた巡り会ってしまうものなのか。 Thu Jun 10 06:06:55 2010 webから
第3回
6/12讀賣朝刊。藤子A、手塚『新宝島』について「オープンカーで走る場面で、ひと言もセリフがない。でも、音まで聞こえるわけですよ。車のタイヤのきしみとか、ブレーキの音とか。絵も完全に動いて見えた。」石森や赤塚も同作で漫画家を志した由。写真はAとFの同人誌『小太陽』。超稀覯本。 Sat Jun 12 08:30:47 2010 webから
第4回
6/14讀賣朝刊。藤子不二雄A、Fと合作で高3のとき新聞に投稿した4コマ漫画でデビュー。「すぐに忘れられはしましたが、僕にはそれが、非常な自信になりました。チビで、すぐに赤くなる「電熱器」だけど、僕は漫画が描けるんだと。それがなかったら、いじけた子供になっていたと思います」 Mon Jun 14 10:10:58 2010 webから
第5回
6/15讀賣朝刊。藤子不二雄は手塚治虫に何通も手紙を出し、遂に宝塚の手塚宅を訪れる。藤子A「編集者の人に、インクとか、原稿用紙とか、先生の使っている道具を聞いて、早々にお宅を出たんです。それから富山で同じ道具を買い集め、道具が一緒なのに、何で先生のように描けないのかと悩みました」 Wed Jun 16 02:38:24 2010 webから
第6回
6/16讀賣朝刊。新聞社に入った藤子A、ルポの連載を頼まれる。初回は動物園。一言もインタビューできず、仕方なく「ライオンはこう言った、トラはこう言った」とやったら受けた。2回目は郵便局で、これはちゃんと取材。そうするうち、人見知りだったのが「人間が大好き」に変わっていったという。 Wed Jun 16 08:47:47 2010 webから
第7回
6/17讀賣朝刊。上京した藤子Aは手塚の手伝いをする。カンヅメにされた旅館へ他誌の編集者が原稿の催促に来て外から怒鳴る。黙って伏せてたら投石開始。「編集者が、石をどんどん投げ込んできたんです。下は砂利だから、石はいくらでもある。当たっても「痛い!」と言えなくてジーッとしていました Thu Jun 17 13:28:25 2010 webから
6/17讀賣朝刊。藤子不二雄Aは「ジャングル大帝」の最終回も手伝う。「描きながら、自分が探検隊の一人になって、凍死していくような気になって……漫画を描きながら、自分がその中に入っていく。それを教えられた気がしました。僕は先生のアシスタント第1号だと、今も誇りに思っています」 Thu Jun 17 13:32:19 2010 webから
第8回
6/19讀賣朝刊。手塚の模写を繰り返していたことが藤子不二雄に道を開く。「徹夜は3日くらいなら平気で出来ます。若いころはそんなもんじゃなかった…手塚治虫先生の登場で、ストーリーマンガの需要がドッと増えたときでした…手塚タッチが描けるというので依頼が殺到して…徹夜、徹夜の連続でした Sat Jun 19 19:51:26 2010 webから
第9回
6/21讀賣朝刊。藤子不二雄は1955年正月、仕事に大穴をあける。「依頼されたら最高」と言われた出版界の大物・牧野武朗に頼まれた雑誌の別冊を初め、抱えていた仕事を半分以上落してしまう。それで2年干された。暇になった藤子Aは「草野球チームでダブルヘッダーを週3回も」やったらしい。 Mon Jun 21 11:38:14 2010 webから
第10回
6/22讀賣朝刊、藤子不二雄Aの回想。トキワ荘の兄貴分は寺田ヒロオ。毎日テラさんの部屋でサイダー+焼酎の「チューダー」を飲む。彼は劇画や性的な漫画が許せず、編集部への抗議が通らないと雑誌を降りてしまう。70年代後半には完全に筆を折り、隠棲した後92年に死去。藤子A曰く「緩慢な自殺 Tue Jun 22 08:21:39 2010 webから
第11回
6/23讀賣朝刊、藤子不二雄Aの回想。赤塚不二夫はギャグ漫画が描きたいがストーリー漫画全盛で描かせてもらえない。芽が出ないので漫画家をやめようとしたとき、寺田ヒロオは五万円を貸す。しばらくして「穴が開いたので何でもいいから描いてくれ」と頼まれて描いたギャグ漫画が初の連載となった。 Wed Jun 23 11:01:05 2010 webから
第12回
6/24讀賣朝刊。漸く復帰した藤子不二雄、創刊したサンデーに連載を頼まれる。牧野武朗からやはり新雑誌のマガジンに連載を頼まれたがこちらは辞退。その後彼からの依頼は一切なし。週刊誌に対応できたのはTVを買って週間ペースに慣れていたからか。新しもの好きでテレコやカメラも早くに買った。 Fri Jun 25 07:27:39 2010 webから
第13回
6/26讀賣朝刊。漫画週刊誌の違い。サンデーは注文を付けず、マガジンは牧野武朗がプロデューサー役。藤子不二雄A「システムの違いですが、本当に閉口しました。でも、今の漫画の作り方は編集主導で、あのころの『マガジン』に近い。そういう意味では、時代の先を行っていたのでしょう」 Mon Jun 28 11:30:50 2010 webから
第14回
6/28讀賣朝刊。藤子不二雄Aがアニメ制作会社「スタジオ・ゼロ」の思い出を語る。石森章太郎らとアトムの原画を描いたら、いつもは気を遣う手塚が「うーん」とうなだれる。誰が描いたかすぐ分かるものになっていた。手塚タッチなら描き分けられるのに、動画だと個性が出てしまったらしい。 Wed Jun 30 22:15:44 2010 webから
第15回
6/29讀賣朝刊。「オバケのQ太郎」は藤子不二雄初の大ヒット作で最後の合作。スタジオ・ゼロの資金を稼ぐべく連載開始。メンバーはお化け映画が大好き。タイトルに悩んでいるとき、安部公房の小説を開いたら「Q」という文字が飛び出してきた。シッポが付いているみたいでユーモラスなのでQ太郎に Wed Jun 30 22:25:27 2010 webから
第16回
6/30讀賣朝刊、藤子不二雄Aの「氏」の由来「手塚治虫先生に最初に「氏」を付けて呼んでもらったことがうれしくて、親しい人は「氏」で呼んでいます。妻のことも「和代氏」と呼ぶほど」一目惚れして独身主義を撤回。早く帰ると約束して結婚したのに、新婚旅行から帰るなり一か月帰らず怒られる。 Wed Jun 30 22:34:42 2010 webから
第17回
7/1讀賣朝刊、藤子不二雄Aの漫画の描き方。1964年「フータくん」の頃から忙しくて「バッと原稿用紙にコマを描いて、自分でも先が分からない描き方」に。「毛沢東伝」も資料は山ほど読んだが展開はその場任せだったという。これも或る種の無為か。「決めないからこそ、いいラストが描ける」 Thu Jul 1 05:29:36 2010 webから
第18回
7/3讀賣朝刊。藤子不二雄、童心を持ち続けるFに対し異常な世界に入ってゆくA。「劇画 毛沢東伝」。E.スノー「中国の赤い星」を読んで長征に興味を持っていた。絵柄を変えるべく筆圧の強いスタッフを集め、アニメの機械を使って写真のコピーのような絵を入れたりした。思想とは関係なく英雄伝のつもりで描いた由。 Sat Jul 3 22:46:26 2010 webから
第19回
7/5讀賣朝刊。藤子不二雄、ドラえもん人気の頃はAがFのマネジャーになるしかないと思ったことも。漫画は頭で考える部分と体験の部分があり、Fは恐らく全部頭で考えていた。これは天才にしか出来ない。「魔太郎」は体験が元。大映映画で見た化け猫の「恨み晴らさでおくべきか」を決めゼリフにした Mon Jul 5 11:42:09 2010 webから
第20回
7/6讀賣朝刊。藤子不二雄Aはゴルフ好き。最初はプチブルの遊びと軽蔑していたが今も週に一回以上コースに出る。ゴルフ漫画は初め反対されたので、子供達に貯金が流行していると聞いてお金を絡ませることに。主人公を賞金稼ぎにして生まれたのが「プロゴルファー猿」。少年誌初のゴルフ漫画だった。 Tue Jul 6 10:59:05 2010 webから
第21回
7/7讀賣朝刊。藤子不二雄Aが疎開体験を漫画化した「少年時代」。絶対当たらないが終戦までの1年間の物語なので1年でやめる、と頼んで連載開始。予想通りファンレター1通もなし。編集者の三樹創作は連載を打ち切らず逆にAを励ます。最終回で初めて山のような反響、しかもほとんどが長文だった。
第22回
7/8讀賣朝刊。藤子不二雄、Fが胃癌で入院した際、AはFのスタッフを抱えて奮闘。恐らくそれを負担に思ったF、87年のある夜、A宅に来て「別れよう」と言う。「思えば、「新聞社をやめろ」と言ったのも、「独立しよう」と言ったのも彼。その方向性はいつも間違っていなかった。感謝しています」 Fri Jul 9 07:40:38 2010 webから
第23回
7/10讀賣朝刊。手塚治虫曰く漫画の基本は円。フリーハンドで円を描けるかどうか。亡くなる少し前に藤子不二雄が見舞った際、言われるままペンを渡すと「寝たまま空中に円を描く動きをして、ペンをポトッと落として、「ああ、円が描けなくなった」と。僕も藤本氏も、それを見て泣きそうになってね」 Sun Jul 11 18:40:55 2010 webから
7/10讀賣朝刊、藤子不二雄A「僕は藤本氏がいなかったら、絶対に漫画家にはなっていない。子供の頃からの50年以上のつきあいは、夢のようです。亡くなって、ものすごい虚脱感に襲われました。「藤本氏、逝ってしまったのか」と」F逝きて十年以上、Aは思い出す度に寂しい夢の時を過ごすのだろう Sun Jul 11 18:50:52 2010 webから
第24回
7/13讀賣朝刊。藤子不二雄A、独立すれば失敗してもFに迷惑がかからないと念願の映画作りを決意。題材は「少年時代」。演出は監督に任せ、主題歌だけは作りたかった。数ヶ月悩んで井上陽水に詞を送った。その詞は一行も使われていなかったが「まさにイメージ通りの、あの名曲が出来上がっていた」 Tue Jul 13 05:29:31 2010 webから
第25回
7/14讀賣朝刊、藤子不二雄A。若い人が、一緒に電車に乗っているのにそれぞれ勝手にメールしているのが悲しい。もっと人間同士、顔を付き合わせないと。人は人と付き合うことで成長していく。最後に、座右の銘は「一夜明ければ、すべて夢。この世はなにも変わりなし……」。気楽にいきましょう。 half a minute ago webから
第7回と第23回は140字にまとめきれず2回ツイートした。いずれも手塚治虫と関係がある。連載の中で藤子Aは手塚について「先生というより神様だった」と語っている。回想のモチーフは手塚治虫と藤本弘。
2010年7月15日木曜日
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