2010年7月15日木曜日

讀賣新聞「時代の証言者」藤子不二雄A

讀賣新聞は2010年6月9日から7月14日にかけて、「まんが道60年」と題して藤子不二雄Aの回想を連載した。全25回。私なりの要約をアップしておく。ツイッターからの転載。

第1回
讀賣朝刊の連載「時代の証言者」は今日から藤子不二雄A。こりゃしばらくは讀賣だな、朝刊は。「今の漫画は僕らの時代から格段の進歩を遂げていて…「バガボンド」の井上雄彦さんなんて、あの筆のタッチが見事で、あんまり感激したんでファンレターを出したくらい」このシリーズは金日を除く全曜日掲載 Wed Jun 9 14:14:39 2010 webから

第2回
6/10讀賣朝刊「時代の証言者」。藤子不二雄A「藤本氏も人見知りで、自分から声をかけたのは初めてだったそうですが、運命の導きだったんでしょうね。それから毎日一緒でしたが、わずか2か月で疎開することになりました」運命づけられていれば、ひとたび去ってもまた巡り会ってしまうものなのか。 Thu Jun 10 06:06:55 2010 webから

第3回
6/12讀賣朝刊。藤子A、手塚『新宝島』について「オープンカーで走る場面で、ひと言もセリフがない。でも、音まで聞こえるわけですよ。車のタイヤのきしみとか、ブレーキの音とか。絵も完全に動いて見えた。」石森や赤塚も同作で漫画家を志した由。写真はAとFの同人誌『小太陽』。超稀覯本。 Sat Jun 12 08:30:47 2010 webから

第4回
6/14讀賣朝刊。藤子不二雄A、Fと合作で高3のとき新聞に投稿した4コマ漫画でデビュー。「すぐに忘れられはしましたが、僕にはそれが、非常な自信になりました。チビで、すぐに赤くなる「電熱器」だけど、僕は漫画が描けるんだと。それがなかったら、いじけた子供になっていたと思います」 Mon Jun 14 10:10:58 2010 webから

第5回
6/15讀賣朝刊。藤子不二雄は手塚治虫に何通も手紙を出し、遂に宝塚の手塚宅を訪れる。藤子A「編集者の人に、インクとか、原稿用紙とか、先生の使っている道具を聞いて、早々にお宅を出たんです。それから富山で同じ道具を買い集め、道具が一緒なのに、何で先生のように描けないのかと悩みました」 Wed Jun 16 02:38:24 2010 webから

第6回
6/16讀賣朝刊。新聞社に入った藤子A、ルポの連載を頼まれる。初回は動物園。一言もインタビューできず、仕方なく「ライオンはこう言った、トラはこう言った」とやったら受けた。2回目は郵便局で、これはちゃんと取材。そうするうち、人見知りだったのが「人間が大好き」に変わっていったという。 Wed Jun 16 08:47:47 2010 webから

第7回
6/17讀賣朝刊。上京した藤子Aは手塚の手伝いをする。カンヅメにされた旅館へ他誌の編集者が原稿の催促に来て外から怒鳴る。黙って伏せてたら投石開始。「編集者が、石をどんどん投げ込んできたんです。下は砂利だから、石はいくらでもある。当たっても「痛い!」と言えなくてジーッとしていました Thu Jun 17 13:28:25 2010 webから

6/17讀賣朝刊。藤子不二雄Aは「ジャングル大帝」の最終回も手伝う。「描きながら、自分が探検隊の一人になって、凍死していくような気になって……漫画を描きながら、自分がその中に入っていく。それを教えられた気がしました。僕は先生のアシスタント第1号だと、今も誇りに思っています」 Thu Jun 17 13:32:19 2010 webから

第8回
6/19讀賣朝刊。手塚の模写を繰り返していたことが藤子不二雄に道を開く。「徹夜は3日くらいなら平気で出来ます。若いころはそんなもんじゃなかった…手塚治虫先生の登場で、ストーリーマンガの需要がドッと増えたときでした…手塚タッチが描けるというので依頼が殺到して…徹夜、徹夜の連続でした Sat Jun 19 19:51:26 2010 webから

第9回
6/21讀賣朝刊。藤子不二雄は1955年正月、仕事に大穴をあける。「依頼されたら最高」と言われた出版界の大物・牧野武朗に頼まれた雑誌の別冊を初め、抱えていた仕事を半分以上落してしまう。それで2年干された。暇になった藤子Aは「草野球チームでダブルヘッダーを週3回も」やったらしい。 Mon Jun 21 11:38:14 2010 webから

第10回
6/22讀賣朝刊、藤子不二雄Aの回想。トキワ荘の兄貴分は寺田ヒロオ。毎日テラさんの部屋でサイダー+焼酎の「チューダー」を飲む。彼は劇画や性的な漫画が許せず、編集部への抗議が通らないと雑誌を降りてしまう。70年代後半には完全に筆を折り、隠棲した後92年に死去。藤子A曰く「緩慢な自殺 Tue Jun 22 08:21:39 2010 webから

第11回
6/23讀賣朝刊、藤子不二雄Aの回想。赤塚不二夫はギャグ漫画が描きたいがストーリー漫画全盛で描かせてもらえない。芽が出ないので漫画家をやめようとしたとき、寺田ヒロオは五万円を貸す。しばらくして「穴が開いたので何でもいいから描いてくれ」と頼まれて描いたギャグ漫画が初の連載となった。 Wed Jun 23 11:01:05 2010 webから

第12回
6/24讀賣朝刊。漸く復帰した藤子不二雄、創刊したサンデーに連載を頼まれる。牧野武朗からやはり新雑誌のマガジンに連載を頼まれたがこちらは辞退。その後彼からの依頼は一切なし。週刊誌に対応できたのはTVを買って週間ペースに慣れていたからか。新しもの好きでテレコやカメラも早くに買った。 Fri Jun 25 07:27:39 2010 webから

第13回
6/26讀賣朝刊。漫画週刊誌の違い。サンデーは注文を付けず、マガジンは牧野武朗がプロデューサー役。藤子不二雄A「システムの違いですが、本当に閉口しました。でも、今の漫画の作り方は編集主導で、あのころの『マガジン』に近い。そういう意味では、時代の先を行っていたのでしょう」 Mon Jun 28 11:30:50 2010 webから

第14回
6/28讀賣朝刊。藤子不二雄Aがアニメ制作会社「スタジオ・ゼロ」の思い出を語る。石森章太郎らとアトムの原画を描いたら、いつもは気を遣う手塚が「うーん」とうなだれる。誰が描いたかすぐ分かるものになっていた。手塚タッチなら描き分けられるのに、動画だと個性が出てしまったらしい。 Wed Jun 30 22:15:44 2010 webから

第15回
6/29讀賣朝刊。「オバケのQ太郎」は藤子不二雄初の大ヒット作で最後の合作。スタジオ・ゼロの資金を稼ぐべく連載開始。メンバーはお化け映画が大好き。タイトルに悩んでいるとき、安部公房の小説を開いたら「Q」という文字が飛び出してきた。シッポが付いているみたいでユーモラスなのでQ太郎に Wed Jun 30 22:25:27 2010 webから

第16回
6/30讀賣朝刊、藤子不二雄Aの「氏」の由来「手塚治虫先生に最初に「氏」を付けて呼んでもらったことがうれしくて、親しい人は「氏」で呼んでいます。妻のことも「和代氏」と呼ぶほど」一目惚れして独身主義を撤回。早く帰ると約束して結婚したのに、新婚旅行から帰るなり一か月帰らず怒られる。 Wed Jun 30 22:34:42 2010 webから

第17回
7/1讀賣朝刊、藤子不二雄Aの漫画の描き方。1964年「フータくん」の頃から忙しくて「バッと原稿用紙にコマを描いて、自分でも先が分からない描き方」に。「毛沢東伝」も資料は山ほど読んだが展開はその場任せだったという。これも或る種の無為か。「決めないからこそ、いいラストが描ける」 Thu Jul 1 05:29:36 2010 webから

第18回
7/3讀賣朝刊。藤子不二雄、童心を持ち続けるFに対し異常な世界に入ってゆくA。「劇画 毛沢東伝」。E.スノー「中国の赤い星」を読んで長征に興味を持っていた。絵柄を変えるべく筆圧の強いスタッフを集め、アニメの機械を使って写真のコピーのような絵を入れたりした。思想とは関係なく英雄伝のつもりで描いた由。 Sat Jul 3 22:46:26 2010 webから

第19回
7/5讀賣朝刊。藤子不二雄、ドラえもん人気の頃はAがFのマネジャーになるしかないと思ったことも。漫画は頭で考える部分と体験の部分があり、Fは恐らく全部頭で考えていた。これは天才にしか出来ない。「魔太郎」は体験が元。大映映画で見た化け猫の「恨み晴らさでおくべきか」を決めゼリフにした Mon Jul 5 11:42:09 2010 webから

第20回
7/6讀賣朝刊。藤子不二雄Aはゴルフ好き。最初はプチブルの遊びと軽蔑していたが今も週に一回以上コースに出る。ゴルフ漫画は初め反対されたので、子供達に貯金が流行していると聞いてお金を絡ませることに。主人公を賞金稼ぎにして生まれたのが「プロゴルファー猿」。少年誌初のゴルフ漫画だった。 Tue Jul 6 10:59:05 2010 webから

第21回
7/7讀賣朝刊。藤子不二雄Aが疎開体験を漫画化した「少年時代」。絶対当たらないが終戦までの1年間の物語なので1年でやめる、と頼んで連載開始。予想通りファンレター1通もなし。編集者の三樹創作は連載を打ち切らず逆にAを励ます。最終回で初めて山のような反響、しかもほとんどが長文だった。

第22回
7/8讀賣朝刊。藤子不二雄、Fが胃癌で入院した際、AはFのスタッフを抱えて奮闘。恐らくそれを負担に思ったF、87年のある夜、A宅に来て「別れよう」と言う。「思えば、「新聞社をやめろ」と言ったのも、「独立しよう」と言ったのも彼。その方向性はいつも間違っていなかった。感謝しています」 Fri Jul 9 07:40:38 2010 webから

第23回
7/10讀賣朝刊。手塚治虫曰く漫画の基本は円。フリーハンドで円を描けるかどうか。亡くなる少し前に藤子不二雄が見舞った際、言われるままペンを渡すと「寝たまま空中に円を描く動きをして、ペンをポトッと落として、「ああ、円が描けなくなった」と。僕も藤本氏も、それを見て泣きそうになってね」 Sun Jul 11 18:40:55 2010 webから

7/10讀賣朝刊、藤子不二雄A「僕は藤本氏がいなかったら、絶対に漫画家にはなっていない。子供の頃からの50年以上のつきあいは、夢のようです。亡くなって、ものすごい虚脱感に襲われました。「藤本氏、逝ってしまったのか」と」F逝きて十年以上、Aは思い出す度に寂しい夢の時を過ごすのだろう Sun Jul 11 18:50:52 2010 webから

第24回
7/13讀賣朝刊。藤子不二雄A、独立すれば失敗してもFに迷惑がかからないと念願の映画作りを決意。題材は「少年時代」。演出は監督に任せ、主題歌だけは作りたかった。数ヶ月悩んで井上陽水に詞を送った。その詞は一行も使われていなかったが「まさにイメージ通りの、あの名曲が出来上がっていた」 Tue Jul 13 05:29:31 2010 webから

第25回
7/14讀賣朝刊、藤子不二雄A。若い人が、一緒に電車に乗っているのにそれぞれ勝手にメールしているのが悲しい。もっと人間同士、顔を付き合わせないと。人は人と付き合うことで成長していく。最後に、座右の銘は「一夜明ければ、すべて夢。この世はなにも変わりなし……」。気楽にいきましょう。 half a minute ago webから


第7回と第23回は140字にまとめきれず2回ツイートした。いずれも手塚治虫と関係がある。連載の中で藤子Aは手塚について「先生というより神様だった」と語っている。回想のモチーフは手塚治虫と藤本弘。

2010年6月30日水曜日

片山杜秀書評、2010年6月

先月に引き続き、ツイッターから転載。

6/6讀賣書評。片山杜秀の担当はダニエル・レヴィティン『音楽好きな脳』。小脳は音楽に反応し敵から逃げたり獲物を捕まえたりするのと関係しているらしい。石原あえか『科学する詩人ゲーテ』も取り上げられている。2月に片山が書評した末延芳晴『寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者』を想起する。

6/13讀賣書評。片山杜秀は休。河合香織評、小関智弘『越後えびかずら維新』に注目。瞽女の語る川上善兵衛の日本ワイン事始め。「瞽女は男性と恋仲になれない掟がある…その思いを込めるかのように」言い難いことも進言した由。「はなれ瞽女おりん」の世界だ。

6/20讀賣書評。片山杜秀の担当は北村寿夫『新諸国物語』第1巻(作品社)。同作は戦後初期の国民的大ヒットシリーズであり、島国に押し込められた日本の国民感情が反映されている。さて来週の片山さんは。難しいが堀江則雄『ユーラシア胎動』(岩波新書)か

6/27讀賣書評、片山杜秀の担当は川本三郎『いまも、君を想う』。対談したばかりだしなあ。本書は結びに短歌が数首出てくるのが鍵。亡妻記は「俺の悲しみは俺にしか分からない」になりがちだが、短歌は言葉が削られる分思いが匿名化して共有可能になりやすい。

※付録

6/23朝日夕刊、片山杜秀の演奏会評。スウェーデン放送合唱団の「薄くても破れない」声を「天才陰陽師が水も漏らさぬ結界を張るかの如し」と評。非実在を比喩にもってくるとは参った。曲目はバーバー「アニュス・デイ」、マルタン「ミサ」、サンドストレーム「主を讃えよ」、プーランク「人間の顔」

2010年6月8日火曜日

片山杜秀書評、2010年5月

片山杜秀は讀賣新聞の書評委員を務めている。その書評をツイッターに記録しているので、一月ごとにブログに転載することとする。

(以下ツイートを転載、太字その他はここで加工)
5/2讀賣書評レポ。片山杜秀の担当はモラスキー『ジャズ喫茶論』。ジャズ喫茶に関する冷静な研究は少なく、本書はその空白を埋めるもの。さて来週の片山さんは。候補多し。『伊藤博文』は井上寿一に回り、片山氏は『一海知義著作集6』か。『ダーウィンの夢』も 2:41 PM May 3rd webから

5/9讀賣書評レポ。片山杜秀は休。瀧井一博『伊藤博文』評は井上寿一、『一海知義著作集6 文人河上肇』は野家啓一。井上は、伊藤は忘れられたと書いている。近代日本研究などしているととてもそうは思わないが、一般にはそうなのかも知れない。さて来週の片山さんは。『高山寺蔵 南方熊楠書翰』か 1:53 AM May 11th webから

※5/16はメモするのを忘れた。片山は櫻井義秀・中西尋子『統一教会』(北大出版会4935円)を書評している。

※5/23は片山さんお休み。

5/30讀賣書評。片山杜秀は『ヒトラーとバイロイト音楽祭』を評。何と書き出しは「『赤毛のアン』は」。ワーグナーの息子の嫁とアンは孤児で老夫婦に預けられたところが共通。「彼女の人生を『赤毛のアン』と二重写しにしてオペラにしたい」。書いてくれ!さて来週の片山さんは。『音楽好きな脳』か 4:10 AM Jun 1st webから

2010年5月4日火曜日

新聞各紙は一面コラムを署名入りにせよ

ある友人が新聞について「署名なしの記事ばっかで、一番風刺の利いてるのが堂々と名前出してるしりあがり寿の漫画とかじゃどうしようもないじゃん」と言った。ちょっと話がねじれてる気もするが、確かにそういうところもある。しりあがり「地球防衛家のヒトビト」(朝日新聞夕刊)は、現在の新聞4コマの中で最も風刺を試みている漫画だろう。風刺画なら毎日新聞の西村晃一だ。毎回何らかのメッセージを感じる。強度がある。

もちろん記事は風刺ではないし、絵と文章とでは訴求力が異なることもあるだろう。それでも、読み終えて一番印象に残ったのが漫画だった、という読者がいることに新聞記者は危機感を持つべきだ。新聞の主役は我々のはずだ、という自負があっていい。

冒頭の発言から、署名についても考えてみる。4コマ漫画には必ず作者名が記してある。風刺画にも必ず書いてある。そうしたことを気にして新聞を読んでいると、ちょっとした挿絵にもたいてい署名があることに気づく。それに比すれば頻度は低いが、写真にも撮影者の名前が付されている。投書欄など、ほぼ100%「署名記事」である※。となると、新聞の中で一番名前を出さないのが新聞記者ということになる。矛盾ではないか。考えようによっては差別でさえある。

※例外は人生相談その他。事情が事情だから仕方ない。

やはり署名はあった方が良い。以前どんな記事を書いていた記者かが念頭にあれば、読み方が多少変わってくる。特に政治面など、名前を出すと「ヤバい」記事もあるだろう。そうしたものは無署名で良いと思う。ただしこの場合も署名記事が普通という状態にしておいた方が効果的だ。であれば無署名記事は「ヤバいです」というメッセージになるし、読者側はどのあたりが「アウト」なのか考えながら読めばよい。

日本の新聞でも、毎日新聞のように署名記事を増やしているものもある。例えば今日(5月4日)の朝刊の一面は、特集※とコラム(余録)を除いて全て署名記事だ。それで何か問題が生じているのだろうか。どうしたら日本の新聞は署名記事を増やしてくれるのだろう。考えてみると、天声人語を始めとして一面コラムは各紙「顔」にしているのに無署名なのは象徴的である。この点は毎日も変わらない。一面コラムを全て署名入りにしてしまえ。これでどうだろう。

※特集は連載終了時に「誰々が担当しました」と出る。しかし後でなくても良かろうとは思う。

2010年5月3日月曜日

最近見つけた新聞の悪文

以下は、最近読んだ中では一番明白に誤りだと感じた文章。5月2日の讀賣新聞に載った『大平正芳全著作集1』の書評冒頭の一文である。

大平正芳全著作集1/茜色の空(評者:橋本五郎)
多くの著作を物した政治家はいた。中曽根康弘氏はその例外的な存在である。しかし、「全著作集」と銘打って江湖に問うのは前代未聞だろう。

筆者の念頭に「一般の政治家<中曽根<大平」という図式があるのは分かるが、ならば「例外」は誤りだ。「しかし」もこのままでは具合が悪い。一番簡単な解決策は「中曽根」以下の一文を削ってしまうこと。これが挿入されているせいで文がねじれている。或いは訂正するならば

「多くの著作を物した政治家はいた。中でも別格の、中曽根康弘氏のような存在もある。しかし、それでも「全著作集」と銘打って江湖に問うのは前代未聞だろう」

とでもしなければならない。評者の橋本は、同紙の記者としては唯一書評委員となっているが、この人選には些か疑問を感じる。ただ、野中尚人先生は彼の著書『範は歴史にあり』(藤原書店)を楽しくお読みになったようだ(書評)。上に引用した悪文はたまたま、ということなのだろうか。


次も間違い。少々話題を呼んだ、韓国人男性が子ども手当を 554人分申請したと報じた記事である。

子ども手当:韓国人男性が554人分申請(2010年4月24日毎日新聞、鈴木直)
今回のようなケースについては、国会審議で野党から問題点として指摘されていた。手当の支給要件は(1)親など養育者が日本国内に居住している(2)子どもを保護・監督し、生活費などを賄っている--の2点だけ。母国に子どもを残してきた外国人にも支給されるうえ、人数制限もなく、機械的な線引きが難しいためだ。

「なく」が誤り。「ないのは」としないと、「外国人にも支給される」と「人数制限もなく」を受ける言葉が「ため」になってしまう。「外国人〜」と「人数制限〜」は問題点であって支給用件が上のようになっている理由ではないので、「ため」で受けるのは間違いだ。

鈴木記者は、以前1面か2面で「おどろおどろしい」という言葉を用いたことがあった※。新聞で使うには強い表現である。その記事では、残念なことに何がおどろおどろしいのか今ひとつピンとこなかったのだが、ともあれ、新聞の決まりきった言い回しを打破せんとして試行錯誤しているのかな、と思っていた。しかし上の例を見ると、単に言葉遣いに若干拙いところがあるだけなのかも知れない。

「公共工事の「個所付け」で紛糾」2010年2月5日


最後に、誤りではないが紋切型と感じた文例を挙げる。

密約文書破棄(その2止) 進まぬ「徹底調査」(2010年4月26日毎日新聞東京朝刊、中川佳昭・中澤雄大)
60年安保条約改定時の核持ち込み密約、69年の沖縄返還を巡る核再持ち込み密約の当事者は、アメリカ局長、事務次官、駐米大使を歴任した父・文彦氏。父が密約を封印し、息子が公開する皮肉な人生の巡り合わせだ。

別に息子が父の秘密を守り通さねばならない義務なんてないんだし、考えようによっては息子がきっちり責任を取ったとも言える。皮肉と解することもできようが、新聞は「皮肉」を安易に用いる傾向がある。ほぼ紋切型と化していると言って良いだろう。厳密に「皮肉」としか言えない場合に限って用いた方が良いのではないか。

2010年4月24日土曜日

改めて言う。「交響曲 オホツク海」は存在しない

日本記者クラブ賞:本紙・梅津記者に 音楽担当の受賞は初(2010年4月24日毎日新聞東京朝刊)

梅津時比古記者は伊福部昭が亡くなったとき、訃報に「交響曲 オホツク海」なる存在しない作品を載せた。私は何度か電話で訂正を求めたが、4年以上そのままになっている。日本記者クラブ賞は「ジャーナリズムの信用と権威を高めた記者の顕彰」を目的としているそうだ。近代日本の代表的作曲家についての誤報を流し、指摘を受けても再調査もしなければ訂正もしない記者が「ジャーナリズムの信用」を高めるとは思えない。

合唱頌詩「オホーツクの海」という伊福部作品は存在するが、「オホツク海」という交響曲は存在しない。梅津氏が、この存在しない作品に言及したのは、毎日新聞の前身である東京日日新聞に「新しきアジヤを雄叫ぶ 交響曲『オホツク海』 伊福部昭氏・作曲に精進」(1942年2月25日北海道版)という記事が掲載されているからだ。しかしこの点については伊福部に関する著書のある木部与巴仁氏が作曲者に確認し、「記者の勘違いではないか」という証言を得ている。詳しくはこちら(過去のブログ記事)をお読み頂きたい。

いつまで経っても訂正しないのは恐らく、あの訃報には誤りが二箇所あったからだ。記事の中で伊福部作品の交響頌偈「釈迦」に触れたまでは良かったものの、「頌偈」に「しょうげ」という誤った読みがなを付してしまった。「じゅげ」が正しい。この点は私以外にも電話した人がいたようで、翌日訂正が出た。「オホツク海」についても訂正すれば2度目の訂正となる。一つの記事について2回訂正をするというのは余り聞いたことがない。体面を保つべく訂正記事を出すのを躊躇したのだろう。

伊福部は交響曲を書くことに対する緊張感について各所で述べており、生涯のうちで書き上げた交響曲は「シンフォニア・タプカーラ」だけだった。伊福部の音楽を好む人であれば「交響曲 オホツク海」などという文字を目にした瞬間におかしいと気づくはずだ。梅津氏は伊福部には余り詳しくないらしい。それでも他紙の訃報との差異化を図るべく、何かないかと探したら東京日日の記事が出てきて、これ幸いとその記事を使うことにしたのだろう。実際、電話では「これは面白いと思って」という言い方をしていたのを覚えている。軽率だった。

氏は「訂正は再調査をしてから」というようなことを言うので、私は半年でも一年でもいいから時間を区切って結論を出して欲しいと言った。すると彼は「99%結論は出せる。しかしそれがいつかは言えない。答える義務もない」と返してきた。確かに義務はないのだろう。しかし良心的な態度ではない。「99%」云々に至っては、新聞記者の言葉というより政治家の言葉である。電話の内容を一方的に公表するようなことは慎むべきだと分かってはいる。4年以上無念に思ってきた、悔しさの為せる業であると捉えて頂ければ幸いである。

ところで、この賞はどのようにして選ばれるのだろう。選考委員が誰なのかは分からないが、日本記者クラブHPの組織図を見ると、理事は新聞テレビ関係者ばかりである。「仲間ぼめ」のような賞だとしたら、そんなものをもらって感謝するという感覚は、やはりおかしい。

2010年4月23日金曜日

レコード世代の心情

音楽は形を失った。「形」というのは、例えばレコードなどのことである。私は CD 世代だ。音楽を聴くようになり、しばらくして MD の時代になるのかと思ったらその時期はあっと言う間に過ぎてしまって、今や音楽は配信されるものとなって形を失った。

私はクラシックおたくである。クラシック音楽の CD には解説が付いている。国内盤であれば好きな書き手がライナーノーツを執筆していることを期待し、輸入盤であれば英文を楽しむことは出来ずとも未知の情報がそこに載っていることを期待するのが CD 購入時の楽しみだ。

以上は文字偏重の楽しみ方で、視覚的にはジャケットを眺める楽しみがある。そしてジャケット・デザイナーの創作意欲を掻立てるには、少なくとも LP ジャケット程度の「キャンバス」が必要なのだろう。高橋敏郎『LPジャケット美術館』(2007)のような本はあるが、CDに類書はどれくらいあるのだろうか。クラシックに限らず、定期的に LP のオリジナル・ジャケットが「紙ジャケ」で復刻されているのを見るに、ジャケット界はレコード時代の方が豊穣だったと言って良かろう。

以下に引用するのは、カセット・CD への移行を目の当たりにしたレコード世代の嘆きである。音楽が配信されるものとなった今日に於いて、記録する価値のある歴史的証言と思う。

三浦淳史「レコードの愉しみ方の何分の一かに、ジャケットのディザインがある。ぼくがカセットが好きになれない理由の何分の一かも、ジャケットの十分の一ほどに縮刷された、なさけない画像のせいであるようだ。まして、物理的な、余りにも物理的なコンパクト・ディスクに至っては、ひとかけらの夢もない。」(『レコード芸術別冊 名盤コレクション』1973年、音楽之友社)

※三浦淳史(1913-1997)は音楽評論家。イギリス音楽の第一人者として知られた。また作曲家の伊福部昭(1914-2006)・早坂文雄(1914-55)とは中学の同級生で、共に音楽修行に励んだ仲だった。

さて、解説もジャケットも、あくまで楽しみの「何分の一か」であり、大部分の楽しみは音楽そのものを聴くことにある。配信時代が到来し、音楽は純粋に音楽だけで聴かれることになるのだろうか。少なくともクラシック音楽に関しては、PV が付随することはなさそうである。しかし、音楽を補うという意味ではなしに、音楽に観念ないし視覚的なものが付随してレコードのような「形」をとるのも楽しいのではないかと思う。単に保守的心性からくる感慨に過ぎないのだろうとは思うのだが。