日本記者クラブ賞:本紙・梅津記者に 音楽担当の受賞は初(2010年4月24日毎日新聞東京朝刊)
梅津時比古記者は伊福部昭が亡くなったとき、訃報に「交響曲 オホツク海」なる存在しない作品を載せた。私は何度か電話で訂正を求めたが、4年以上そのままになっている。日本記者クラブ賞は「ジャーナリズムの信用と権威を高めた記者の顕彰」を目的としているそうだ。近代日本の代表的作曲家についての誤報を流し、指摘を受けても再調査もしなければ訂正もしない記者が「ジャーナリズムの信用」を高めるとは思えない。
合唱頌詩「オホーツクの海」という伊福部作品は存在するが、「オホツク海」という交響曲は存在しない。梅津氏が、この存在しない作品に言及したのは、毎日新聞の前身である東京日日新聞に「新しきアジヤを雄叫ぶ 交響曲『オホツク海』 伊福部昭氏・作曲に精進」(1942年2月25日北海道版)という記事が掲載されているからだ。しかしこの点については伊福部に関する著書のある木部与巴仁氏が作曲者に確認し、「記者の勘違いではないか」という証言を得ている。詳しくはこちら(過去のブログ記事)をお読み頂きたい。
いつまで経っても訂正しないのは恐らく、あの訃報には誤りが二箇所あったからだ。記事の中で伊福部作品の交響頌偈「釈迦」に触れたまでは良かったものの、「頌偈」に「しょうげ」という誤った読みがなを付してしまった。「じゅげ」が正しい。この点は私以外にも電話した人がいたようで、翌日訂正が出た。「オホツク海」についても訂正すれば2度目の訂正となる。一つの記事について2回訂正をするというのは余り聞いたことがない。体面を保つべく訂正記事を出すのを躊躇したのだろう。
伊福部は交響曲を書くことに対する緊張感について各所で述べており、生涯のうちで書き上げた交響曲は「シンフォニア・タプカーラ」だけだった。伊福部の音楽を好む人であれば「交響曲 オホツク海」などという文字を目にした瞬間におかしいと気づくはずだ。梅津氏は伊福部には余り詳しくないらしい。それでも他紙の訃報との差異化を図るべく、何かないかと探したら東京日日の記事が出てきて、これ幸いとその記事を使うことにしたのだろう。実際、電話では「これは面白いと思って」という言い方をしていたのを覚えている。軽率だった。
氏は「訂正は再調査をしてから」というようなことを言うので、私は半年でも一年でもいいから時間を区切って結論を出して欲しいと言った。すると彼は「99%結論は出せる。しかしそれがいつかは言えない。答える義務もない」と返してきた。確かに義務はないのだろう。しかし良心的な態度ではない。「99%」云々に至っては、新聞記者の言葉というより政治家の言葉である。電話の内容を一方的に公表するようなことは慎むべきだと分かってはいる。4年以上無念に思ってきた、悔しさの為せる業であると捉えて頂ければ幸いである。
ところで、この賞はどのようにして選ばれるのだろう。選考委員が誰なのかは分からないが、日本記者クラブHPの組織図を見ると、理事は新聞テレビ関係者ばかりである。「仲間ぼめ」のような賞だとしたら、そんなものをもらって感謝するという感覚は、やはりおかしい。
2010年4月24日土曜日
2010年4月23日金曜日
レコード世代の心情
音楽は形を失った。「形」というのは、例えばレコードなどのことである。私は CD 世代だ。音楽を聴くようになり、しばらくして MD の時代になるのかと思ったらその時期はあっと言う間に過ぎてしまって、今や音楽は配信されるものとなって形を失った。
私はクラシックおたくである。クラシック音楽の CD には解説が付いている。国内盤であれば好きな書き手がライナーノーツを執筆していることを期待し、輸入盤であれば英文を楽しむことは出来ずとも未知の情報がそこに載っていることを期待するのが CD 購入時の楽しみだ。
以上は文字偏重の楽しみ方で、視覚的にはジャケットを眺める楽しみがある。そしてジャケット・デザイナーの創作意欲を掻立てるには、少なくとも LP ジャケット程度の「キャンバス」が必要なのだろう。高橋敏郎『LPジャケット美術館』(2007)のような本はあるが、CDに類書はどれくらいあるのだろうか。クラシックに限らず、定期的に LP のオリジナル・ジャケットが「紙ジャケ」で復刻されているのを見るに、ジャケット界はレコード時代の方が豊穣だったと言って良かろう。
以下に引用するのは、カセット・CD への移行を目の当たりにしたレコード世代の嘆きである。音楽が配信されるものとなった今日に於いて、記録する価値のある歴史的証言と思う。
三浦淳史「レコードの愉しみ方の何分の一かに、ジャケットのディザインがある。ぼくがカセットが好きになれない理由の何分の一かも、ジャケットの十分の一ほどに縮刷された、なさけない画像のせいであるようだ。まして、物理的な、余りにも物理的なコンパクト・ディスクに至っては、ひとかけらの夢もない。」(『レコード芸術別冊 名盤コレクション』1973年、音楽之友社)
※三浦淳史(1913-1997)は音楽評論家。イギリス音楽の第一人者として知られた。また作曲家の伊福部昭(1914-2006)・早坂文雄(1914-55)とは中学の同級生で、共に音楽修行に励んだ仲だった。
さて、解説もジャケットも、あくまで楽しみの「何分の一か」であり、大部分の楽しみは音楽そのものを聴くことにある。配信時代が到来し、音楽は純粋に音楽だけで聴かれることになるのだろうか。少なくともクラシック音楽に関しては、PV が付随することはなさそうである。しかし、音楽を補うという意味ではなしに、音楽に観念ないし視覚的なものが付随してレコードのような「形」をとるのも楽しいのではないかと思う。単に保守的心性からくる感慨に過ぎないのだろうとは思うのだが。
私はクラシックおたくである。クラシック音楽の CD には解説が付いている。国内盤であれば好きな書き手がライナーノーツを執筆していることを期待し、輸入盤であれば英文を楽しむことは出来ずとも未知の情報がそこに載っていることを期待するのが CD 購入時の楽しみだ。
以上は文字偏重の楽しみ方で、視覚的にはジャケットを眺める楽しみがある。そしてジャケット・デザイナーの創作意欲を掻立てるには、少なくとも LP ジャケット程度の「キャンバス」が必要なのだろう。高橋敏郎『LPジャケット美術館』(2007)のような本はあるが、CDに類書はどれくらいあるのだろうか。クラシックに限らず、定期的に LP のオリジナル・ジャケットが「紙ジャケ」で復刻されているのを見るに、ジャケット界はレコード時代の方が豊穣だったと言って良かろう。
以下に引用するのは、カセット・CD への移行を目の当たりにしたレコード世代の嘆きである。音楽が配信されるものとなった今日に於いて、記録する価値のある歴史的証言と思う。
三浦淳史「レコードの愉しみ方の何分の一かに、ジャケットのディザインがある。ぼくがカセットが好きになれない理由の何分の一かも、ジャケットの十分の一ほどに縮刷された、なさけない画像のせいであるようだ。まして、物理的な、余りにも物理的なコンパクト・ディスクに至っては、ひとかけらの夢もない。」(『レコード芸術別冊 名盤コレクション』1973年、音楽之友社)
※三浦淳史(1913-1997)は音楽評論家。イギリス音楽の第一人者として知られた。また作曲家の伊福部昭(1914-2006)・早坂文雄(1914-55)とは中学の同級生で、共に音楽修行に励んだ仲だった。
さて、解説もジャケットも、あくまで楽しみの「何分の一か」であり、大部分の楽しみは音楽そのものを聴くことにある。配信時代が到来し、音楽は純粋に音楽だけで聴かれることになるのだろうか。少なくともクラシック音楽に関しては、PV が付随することはなさそうである。しかし、音楽を補うという意味ではなしに、音楽に観念ないし視覚的なものが付随してレコードのような「形」をとるのも楽しいのではないかと思う。単に保守的心性からくる感慨に過ぎないのだろうとは思うのだが。
2010年4月21日水曜日
片山杜秀が読む坂本龍一の箏協奏曲
4月21日朝日新聞東京夕刊に片山杜秀の演奏会評が載っている。坂本龍一の新作「箏とオーケストラのための協奏曲」について。4月13日、東京オペラシティコンサートホール「箏とオーケストラの響宴」。
「ないない尽くしの虚の音楽だった。協奏曲なのに箏らしい名人芸がない。……構成にもドラマがない。……メロディーやリズムも目立つ創意はない。」
ここまでで4段落が経過しており、さすがに不安になってくる。しかし次の段落で転換。
「そんな虚の世界から生まれるのは、作家の独創性や表現の固有性を重んじる近代芸術へのプロテスト。……環境や平和に対する坂本の社会的主張が音楽に化身している。そう聴くと味」
そう聴きましたか片山さん。文章は次の段落からコーダに向けてもう一度盛り上がる。共に演奏されたのは旧ソ連の女性作曲家グバイドゥーリナの強烈な箏協奏曲「樹影にて」(1998)とプロコフィエフ「ロメオとジュリエット」抜粋。前者では独奏の沢井一恵がシャーマン型の個性を炸裂させ、後者は指揮の佐渡裕が爆演を聞かせた。
「坂本の新作とそれらの何たる温度差! 音楽とは何? 激するか。鎮まるか。何を聴くのが幸せか。我々に究極の問いを投げた一夜」
ここで片山節も炸裂。激するも文章。鎮まるも文章。しかし少なくともご自分がどんな文章を書くのが幸せなのかは既にお分かりなのではありませんか。
参考:望月京「音楽季評」2010年4月22日讀賣新聞東京朝刊
「クラシックでも邦楽でもポップスでもないスタイルは、ジャンルを超えて浮遊し、誰にでも聴けるものに仕上がっている……異種交配が新しいものを生むには、より深いつながりを求めて受け手の想像力を喚起する力が必要だ……おおよそ相まみえることのなかった世界をまたいでコラボレーションを実践したケージの音楽は、耳になじみやすいものばかりではない。だが、作曲家の目的はコラボレーションそのものではなく、それを通じて音楽の概念を変えることだった/ケージは、「何を為すか」について確固たる信念=思想を持った行為こそが、真に新しい価値を創出するという良い見本だ」(作曲家、明治学院大准教授)
参考:小味渕彦之氏のレポート(Music Scene Yo Hirai内)
「ないない尽くしの虚の音楽だった。協奏曲なのに箏らしい名人芸がない。……構成にもドラマがない。……メロディーやリズムも目立つ創意はない。」
ここまでで4段落が経過しており、さすがに不安になってくる。しかし次の段落で転換。
「そんな虚の世界から生まれるのは、作家の独創性や表現の固有性を重んじる近代芸術へのプロテスト。……環境や平和に対する坂本の社会的主張が音楽に化身している。そう聴くと味」
そう聴きましたか片山さん。文章は次の段落からコーダに向けてもう一度盛り上がる。共に演奏されたのは旧ソ連の女性作曲家グバイドゥーリナの強烈な箏協奏曲「樹影にて」(1998)とプロコフィエフ「ロメオとジュリエット」抜粋。前者では独奏の沢井一恵がシャーマン型の個性を炸裂させ、後者は指揮の佐渡裕が爆演を聞かせた。
「坂本の新作とそれらの何たる温度差! 音楽とは何? 激するか。鎮まるか。何を聴くのが幸せか。我々に究極の問いを投げた一夜」
ここで片山節も炸裂。激するも文章。鎮まるも文章。しかし少なくともご自分がどんな文章を書くのが幸せなのかは既にお分かりなのではありませんか。
参考:望月京「音楽季評」2010年4月22日讀賣新聞東京朝刊
「クラシックでも邦楽でもポップスでもないスタイルは、ジャンルを超えて浮遊し、誰にでも聴けるものに仕上がっている……異種交配が新しいものを生むには、より深いつながりを求めて受け手の想像力を喚起する力が必要だ……おおよそ相まみえることのなかった世界をまたいでコラボレーションを実践したケージの音楽は、耳になじみやすいものばかりではない。だが、作曲家の目的はコラボレーションそのものではなく、それを通じて音楽の概念を変えることだった/ケージは、「何を為すか」について確固たる信念=思想を持った行為こそが、真に新しい価値を創出するという良い見本だ」(作曲家、明治学院大准教授)
参考:小味渕彦之氏のレポート(Music Scene Yo Hirai内)
「どっちも嫌い」
アンジェイ・ワイダ監督の「カティンの森」を見ながら考えたこと。映画は橋の上で民衆が逃げ惑うシーンから始まる。ナチが侵攻してきたから逃げてきたのだが、今度は反対側からソ連が攻めてきたというのである。
ヨーロッパ諸民族の感情は様々に交錯している。ドイツにはフランスへのコンプレックスがあるし、ロシア人が持つ対独劣等感は反転して「ドイツ女」蔑視という形で文学に表れているように思う。問題のポーランド人の感情は「どっちも嫌い」。チェコ人もそうだろう。日本人はこの感覚を欠く。つい先頃まではアメリカ・ソ連のどちらにつくかが問題だったし、これからは米中の二者択一になっていくのかも知れない。
「どっちも嫌い」という感情は抵抗の精神と連続している。どっちも嫌いだから抵抗するのである。ポーランドはナチにもソ連にも抵抗した。いずれも非道い目に遭ったが。チェコは「プラハの春」が印象的だ。どちらかにつけば良いと考えていれば、都合のいい方に守ってもらうことになるだろう。守ってもらえば抵抗しなくて済む。以上は沖縄の基地問題を考えるのにも有効な視点だと思う。
「カティンの森」は音楽も良い。担当したクシシトフ・ペンデレツキ(1933-)はポーランドの代表的現代作曲家。因みに同国にはヴィトルト・ルトスワフスキ(1913-94)という有名な作曲家もおり、現代音楽の盛んなお国柄である。
かなりの映画館で上映が終了してしまっているが、東京では池袋の新文芸坐で5月6日から公開が始まる。新文芸坐は良い映画館である。館内放送に味がある。下の階はパチンコ店なので、運が良ければパチンコ屋の店員さんがエレベータで案内してくれる。気分は御大尽だ。
ヨーロッパ諸民族の感情は様々に交錯している。ドイツにはフランスへのコンプレックスがあるし、ロシア人が持つ対独劣等感は反転して「ドイツ女」蔑視という形で文学に表れているように思う。問題のポーランド人の感情は「どっちも嫌い」。チェコ人もそうだろう。日本人はこの感覚を欠く。つい先頃まではアメリカ・ソ連のどちらにつくかが問題だったし、これからは米中の二者択一になっていくのかも知れない。
「どっちも嫌い」という感情は抵抗の精神と連続している。どっちも嫌いだから抵抗するのである。ポーランドはナチにもソ連にも抵抗した。いずれも非道い目に遭ったが。チェコは「プラハの春」が印象的だ。どちらかにつけば良いと考えていれば、都合のいい方に守ってもらうことになるだろう。守ってもらえば抵抗しなくて済む。以上は沖縄の基地問題を考えるのにも有効な視点だと思う。
「カティンの森」は音楽も良い。担当したクシシトフ・ペンデレツキ(1933-)はポーランドの代表的現代作曲家。因みに同国にはヴィトルト・ルトスワフスキ(1913-94)という有名な作曲家もおり、現代音楽の盛んなお国柄である。
かなりの映画館で上映が終了してしまっているが、東京では池袋の新文芸坐で5月6日から公開が始まる。新文芸坐は良い映画館である。館内放送に味がある。下の階はパチンコ店なので、運が良ければパチンコ屋の店員さんがエレベータで案内してくれる。気分は御大尽だ。
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