4月21日朝日新聞東京夕刊に片山杜秀の演奏会評が載っている。坂本龍一の新作「箏とオーケストラのための協奏曲」について。4月13日、東京オペラシティコンサートホール「箏とオーケストラの響宴」。
「ないない尽くしの虚の音楽だった。協奏曲なのに箏らしい名人芸がない。……構成にもドラマがない。……メロディーやリズムも目立つ創意はない。」
ここまでで4段落が経過しており、さすがに不安になってくる。しかし次の段落で転換。
「そんな虚の世界から生まれるのは、作家の独創性や表現の固有性を重んじる近代芸術へのプロテスト。……環境や平和に対する坂本の社会的主張が音楽に化身している。そう聴くと味」
そう聴きましたか片山さん。文章は次の段落からコーダに向けてもう一度盛り上がる。共に演奏されたのは旧ソ連の女性作曲家グバイドゥーリナの強烈な箏協奏曲「樹影にて」(1998)とプロコフィエフ「ロメオとジュリエット」抜粋。前者では独奏の沢井一恵がシャーマン型の個性を炸裂させ、後者は指揮の佐渡裕が爆演を聞かせた。
「坂本の新作とそれらの何たる温度差! 音楽とは何? 激するか。鎮まるか。何を聴くのが幸せか。我々に究極の問いを投げた一夜」
ここで片山節も炸裂。激するも文章。鎮まるも文章。しかし少なくともご自分がどんな文章を書くのが幸せなのかは既にお分かりなのではありませんか。
参考:望月京「音楽季評」2010年4月22日讀賣新聞東京朝刊
「クラシックでも邦楽でもポップスでもないスタイルは、ジャンルを超えて浮遊し、誰にでも聴けるものに仕上がっている……異種交配が新しいものを生むには、より深いつながりを求めて受け手の想像力を喚起する力が必要だ……おおよそ相まみえることのなかった世界をまたいでコラボレーションを実践したケージの音楽は、耳になじみやすいものばかりではない。だが、作曲家の目的はコラボレーションそのものではなく、それを通じて音楽の概念を変えることだった/ケージは、「何を為すか」について確固たる信念=思想を持った行為こそが、真に新しい価値を創出するという良い見本だ」(作曲家、明治学院大准教授)
参考:小味渕彦之氏のレポート(Music Scene Yo Hirai内)
0 件のコメント:
コメントを投稿